イームズ、イームズと有名なデザイナーですから名前はこのインターネット上でよく見ますが、浅い知識や間違いやおかしな情報ばかりが見受けられます。
イームズとはだれか、どういったことをした人か、どんなデザイナーなのか正しい知識が必要ですね。
彼の生い立ちや実績を書きますので参考にしてください。
Charles Ormond Eames, Jr (チャールズ・オーモンド・イームズ・ジュニア)
1907 – 1978/8/21
1907年 ミズーリ州のセントルイスで生まれました。
実は父親も同じ名前です。だからJrが付いています。
父親は私立探偵機関に所属しており、おもに列車の警備を担当していたそうです。それがどうも危険な境遇にあう仕事だったようで彼が10歳の時に父が銃撃で倒れ、それから3年後に亡くなっています。
1921年 ハイスクールに入学します。
同時に鉄工場で働きだし、この時すでに製図工として実力を認められていたそうです。
1925年 奨学金を貰いワシントン大学に入学します。
・・・が、その三年後に放校処分となります。退学のようなものです。
理由は、後の建築巨匠のひとりであるフランク・ロイド・ライトを慕い過ぎて、大学側にライトの授業を作るように要請したりするなど学校側と方針が合わなくなったからだそうです。
1929年 大学で知り合ったキャサリンと結婚します。
この間、セントルイスにあった設計事務所に就職して経験を積んでいました。
1930年 友人と共同で設計事務所を開設します。
しかし、1929年からの大恐慌のあおりを受け非常に経営が苦しい時期だったそうです。
仕事がほとんど無い状態でした。
1932年 放浪の旅へでる。
色々なことがうまくいかなくなったチャールズは精神的に落ち込み、荷物も大したお金も持たずに妻子を残してメキシコに旅立ちます。
それが8ヶ月間に続き、その間は”宿無しその日暮らし”のまさに放浪といった状態で生活していたそうです。
この間は絵を書いて過ごしたりしていたそうですが、その絵がもとでメキシコの留置所に入れられるなど酷な経験をしています。
1934年 戻ってきてから設計事務所を再開します。
この時の仕事がエーロ・サーリネンの父親であるエリエル・サーリネンの目に留まり、その才能を見抜きチャールズをクランブルックアカデミーに招きます。
1938年(39年説有) クランブルックアカデミーに特別研究員として入学します。
一年後には教師になっていました。
ここでハリー・ベルトイア、フローレンス・ノル、レイ・カイザー、ドン・アルビンソン、エーロ・サーリネンなどなど、後の重要人物たちと出会うことになります。
1940年 エーロ・サーリネンと共同でMOMA(ニューヨーク近代美術館)が主催したオーガニックデザインのコンペに出品します。
二つの部門で最優秀賞を受賞。
1941年 キャサリンと離婚しレイ・カイザーと結婚します。
そしてレイ・カイザーはレイ・イームズになりました。
イームズ夫妻は活動の拠点をカルフォルニア州のロサンゼルスに移します。
同年 医者からの相談によりレッグスプリントの開発に着手します。
レッグスプリント(足を固定する添え木)は夏には完成して量産に入っています。それが海軍から5000個の注文が入るほど多忙だったそうです。
ここでイームズ夫妻はプライフォームド・ウッド社を設立し、ハリー・ベルトイアやハルバート・マターも参加するなど多くの人数で作業をしていたそうです。
それでも納期に追いつかないほどの注文量でした。
1943年 資金繰りに困る。
注文が入るのは良いのですが、海軍は支払いスパンが長く実際に入金されるまで時間がかかったそうです。それにより資金繰りがうまくいかなくなりました。
そこでチャールズはロサンゼルスのエヴァンスプロダクツ社の社長と会い、プライフォームド・ウッド社の製造・販売権を買い取ってもらうことで乗り切ります。
レッグスプリントは最終的に15万個以上生産されました。
1945年 第二次世界大戦が終わり、今までひそかにデザインしていた家具の発表をニューヨークで行います。
その時にイームズプライウッドチェア”DCM”、”LCM”、”DCW”,”LCW”が披露されました。
この時はまだ3本脚だったりと後に生産された構造とは違いがあります。
好評でかなり売れたみたいです。
1946年 MOMAでイームズ展を開催します。
ここにジョージ・ネルソンはハーマンミラー社の初代社長のD.J・ディプリーとセールスマネージャーを誘って訪問します。
その晩かどうかまではわかりませんがハーマンミラー社はエヴァンス社と契約します。
ネルソンは葛藤がありながらも、自分の報酬を減らしてでもイームズ夫妻と契約するべきだとディプリー社長を説得しました。
こうしてハーマンミラー社とイームズ(オフィス)との関係が始まりました。
実はイームズ夫妻にはKnoll(ノル、ノール)社からもオファーがあったそうです。
1947年 エヴァンス社の拠点がミシガン州に移ったことにより、同社のあったロサンゼルス支社をイームズオフィスの拠点にします。
しばらくはハーマンミラー社とシェアして使っていたそうです。後に通称901オフィスと呼ばれました。(901番地にあったから)
1948年 MOMAが主催したローコスト家具に参加します。
イームズ夫妻は椅子のデザインを最初は座面と背もたれが一体の成型合板で作りたかった説と、もしくは金属での一体成形にしたかった説の二通りの話があるのですが、もしくは両方ともかもしれませんが、とにかく最初はプラスチック素材で椅子を作ろうとは考えていませんでした。
しかし合板、金属ともに製造がうまくいかないなかである人から助言がありました。
それがガラス繊維が入った強化プラスチックの使用です。つまりFRP素材での開発です。
こうしてFRPで作られたのがイームズプラスチックシェルチェアです。
最初はアームシェルのみ製造され、肘掛のないサイドシェルは50年に入ってから製造されました。
製造はロサンゼルスのゼニス(ジーニス)プラスチック社で行われました。販売はハーマンミラー社です。
1949年 ハーマンミラー社がエヴァンス社を買収。
イームズプライウッドチェアたちもハーマンミラー社から販売されることになりました。
これによりシェルチェア裏側のシールもエバンスの名前が消えました。
同年、case study house #8 & #9を設計完成。
後に「イームズハウス」「エンテンザ邸」と呼ばれることになります。
ここから本格的にハーマンミラー社とイームズオフィスとのコラボレーションが始まります。
その後、多くの家具がデザインされハーマンミラー社から発売されました。
最初こそイームズ夫妻はローコストでミニマルを意識したデザインでしたが、1956年にイームズラウンジチェアという座り心地を追求した高コストなデザインと作るなど幅広い製品を手掛けることになります。
また1950年代はタイグレット(チグレット)社と協力することで子供向け玩具をデザインします。
ハウスオブカードもハングイットオールもこの時です。
また民芸品や旅やカメラも好きだったそうで、旅をしては民芸品を持ち帰り自宅にコレクションをしていました。
旅の最中に撮影された写真は多く残っています。
チャールズはサーカスに夢中にもなっていたそうです。
チャールズはIBM社やアメリカ政府、インド政府といった大きなクライアントを持っていました。
展示やイベントなどで活躍をしていました。
1964-65 年 ニューヨーク万博のIBM展を手がけます。
1970年 大阪万博のIBMパビリオンのコンピューターハウス・オブ・カードを手がけます。
1970年以降もルースクッションアームチェアや、2ピースプラスチックチェアなど数は少ないですが家具のデザインは続けました。
彼が存命中は生涯ハーマンミラー社とだけ家具のデザインをしていました。
それから映像作家として多くの作品を残しています。60年中盤以降は特に力を入れています。
代表的なのはパワーズオブテンでしょうね。
1978年 8月21日の朝、動脈瘤による心臓発作で亡くなりました。
才能の塊みたいな人です。
イームズ、イームズと名前ですし、家具インテリアデザインの入門向けに扱われたりすることもありますが、本当にチャールズ、そして例の活動や功績を分かっている人は少ないです。
彼らの作品の魅力はやはり彼らを知ってこそです。
イームズ夫妻が日本でどう定着したか、ブームの話からイームズデザインを一覧にまとめている記事を書きましたのでご覧ください。
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