Harry Bertoia (ハリー・ベルトイア)
1915/3/10 – 1978/11/6
金属彫刻が有名なアーティストですが、クランブルック時代にイームズ夫妻と出会い彼らと一緒に仕事をしていた時期もあります。
家具製作もしてどうしてKnoll社でダイヤモンドチェアをデザインしたのかを書きました。
実はイタリア生まれです。イタリア生まれのアメリカ人ですが、なんか納得します。なんとなく納得。
金属彫刻家としての生涯
1915年 彼はイタリアのポルデノーネで生まれました。
1930年 15歳の時に干ばつによりアメリカのデトロイトに移動しました。
CASS工業高校でアートやデザインを学んだあと、金属加工で宝飾品を手がけていました。
1937年(1938年との記載もあります) ミシガン州のクランブルック美術大学に入学します
クランブルックは、チャールズ&レイ・イームズやサーリネンやフローレンス・ノルやいろんな人が通ったクランブルックです。
チャールズはその時はデザインの教師を勤めていたそうです。
ベルトイア自身も自分の工房を持つほど金属加工の技術を持っていました。
しかし太平洋戦争の影響で金属を自由に手にすることが困難になっていき、クランブルック自体の活気も奪って行きました。
それからベルトイアはイームズから一緒に仕事をしないかと誘いを受けます。
1941年にチャールズとレイは結婚をして拠点をカルフォルニアに移していました。
イームズ夫妻は添え木(レッグスプリント)の生産に終われ、戦後は成形合板での製品づくりに勤しんでいました。
ベルトイアは寒いクランブルックからカルフォルニアに行くこと自体に魅力を感じたらしく誘いを受け、イームズオフィスのメンバーとしてエヴァンス社で仕事をしていました。1943年からです。ちょっと前に結婚もしたそうです。
でも、そもそもベルトイアは成形合板が好きではなかったのです。
ベルトイアはチャールズ(イームズ)に、こんなことを言ったそうです。
“自然の木を強制的に捩じ曲げて成形すること自体、不自然であり無益なことだ”
彼はアーティストであり彫刻家です。
彼なりの理念や美学があったわけです。
ということが理由のひとつかもしれませんし、ベルトイアはイームズオフィスで働く限り製品に自分のクレジットが載らないということにも不満に思っていました。イームズの映画でもありましたね。そのことは。
1950年 ベルトイアは独立の道を選んでいます。
その後が彼を有名にします。
1950年 フローレンス・ノル、ハンス・ノルの強い勧めによりKnollと仕事をすることになります。
それ以前からノルから誘いを受けていたそうですが、太平洋側の生活に愛着を持っていて東部に行くのを拒んでいたみたいです。
ペンシルヴァニアに移動したベルトイアはハンスが作った工房で自由な創作活動に打ち込みました。
ハンスはベルトイアのアーティスト性を優先したのです。
1952年にNYのショールームに姿を現しました。
しかしイームズのワイヤーチェア(上画像)と似た構造ということで問題視されました。
それもそのはず、イームズワイヤーチェアはイームズオフィス在籍時のベルトイアの功績による製品化に至ったものなのです。
似て当然かもしれません。
訴訟沙汰になり、残念ながらKnoll側はうまくいかなかったそうです。
ベルトイア自身はダイヤモンドチェアを「彫刻のようで、空気で作られている」と評しています。
彼の家具人生は終わりを迎え、その後50以上の彫刻を制作したそうです。
Knoll社から販売されたベルトイアの製品がかなり売れたらしく、お金に余裕が出来たベルトイアは彫刻だけに専念できるようになります。彼のKnollでの製品は1956年にサイドチェア、ラージダイヤモンドチェア、バードチェア、ベンチと続々と発表されています。
その辺はベルトイアファウンデーションのサイトに一覧が載っています。
http://www.harrybertoia.org/sculpture.html
見てみてください。
ちゃんとベルトイア財団があるんです。娘もご健在です。
だからベルトイアはライセンスが管理されておりますので、正規品であるKnoll社はベルトイア財団にライセンス料を支払うことで製造をしています。
そしてベルトイアは1963年に肺がんにより彼はこの世を去ります。
どうですか?なんとなくわかりましたか?
彼は彫刻家だといわれる理由を知ってもらえたと思います。
デザイナーのことを知れば家具がもっと魅力的にみえます。
私としては家具はただ何となく選ぶのではなく、ストーリーや背景を知って選んだ家具を使えばより良く豊かな生活がおくれると思っています。
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