2018年に書いた↑この記事のなかで、家具における「テセウスの船」について触れています。
テセウスの船とはパラドックスの一つです。
ギリシャ神話
プルタルコスは全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのかという疑問が生じる。
家具でこのパラドックスはあります。
新品の家具でも使い続けていくとやがてヴィンテージ品となり、劣化や破損した部分を修理・保証をして、また長く使っていくと別の部分に修理箇所が出てきます。
修理を繰り返して長い年月が経った家具は、いつのまにやらすべてのパーツが置き換わりオリジナルの部品が一つも残っていない状態になります。
果たしてそれはオリジナル品と呼べるのかです。
家具におけるテセウスのパラドックス。
価値と思い出によってテセウスのパラドックスの答えがでます
このパラドックスですが「家具の価値」についてでしたら答えはあります。
ヴィンテージ市場において最も高額なのは一度も修理やパーツ交換をしていない美品です。
一つでもパーツが交換されていると価値は下がります。
つまり、価値だけ考えると一つでもパーツが交換されているとオリジナルとは呼べないということです。
実際、修理をしていない個体をオリジナルコンディションと呼びます。
では、自分が購入をして愛着を持って使っているもの、記念に買ったもの、家族から譲り受けたものといった「所有している家具」の場合はどうでしょうか。
長く使い続けていくうちにどうしても家具がダメになり、その分を交換していきます。
使い続けたいため買い替えはせず直し続けて使います。
ソファやチェアなら生地/レザーの張替え、木部分の修理など様々です。
そしてそのうちに全てのパーツが新しいものに入れ替わります。
購入当初の家具から別物になったかと言えば・・・そうではないと考えます。
そこには思い出が残っています。
どういった理由でその家具を買ったか、入手したかが思い出として残り続けています。
先述の価値としては変わってしまってはいるのですが、自分が愛着を持って使っている家具という意味ではパーツが全部変わろうがオリジナルのままです。
それこそ人間だって数年で全ての細胞が入れ替わるじゃないですか。
ということは、生物的には別の存在になっているということになります。(実際には入れ替わらない細胞もあるそうです)
けど、そうではないですよね?
「魂」が同じじゃないですか?
便宜上「魂」なんて呼びましたが、要は記憶は連続して存在し続けていますから同一個体です。
10年前の「記憶」もあります。
その「記憶」が家具に対しての「思い出」に相当するのではないかと考えます。
どんな店でどんな人から買ったか、普段どうやって使い続けたか、日々の生活、親からもらった家具ならその親の記憶、もう何もかもの思い出はそのままです。
これらはパーツが変わろうが家具に残り続けています。
ということで、異論や別の考えは皆さんあるでしょうけど、私の考えでは家具に置けるテセウスのパラドックスの答えは「価値だけなら一つでもパーツが変わればオリジナルではない」「所有している物はパーツが全て変わってもオリジナルである」です。
ちなみに、修理をしなくても一生使える家具を求めるなら無垢材や金属のみでつく割れた家具でしょうね。
これらは劣化はすれど、無垢材ならパーツ交換せず修繕がしやすく、金属は人間が生きている間ぐらいは全然大丈夫です。
コメント