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「家具の美術化」問題

家具の美術家

なんとなく最近、加速している「家具の美術化」が気になります。

家具は本来、道具です。

つまりプロダクトであり、デザインなのです。

しかし近年、その家具をアート(美術)として扱う傾向が強まっています。

というより、明確にアート化しようとする動きが見られます。

 

背景には、資本主義による「お金の行き先」としてアート市場が拡大し、あらゆるモノを投資対象化する流れがあります。

そして家具もまた、その文脈に取り込まれているように感じます。

 

では、アート化すると何が良いのか。

 

・権威を持たせられる

・価格設定が自由になる

・富裕層が購入することで市場価値を吊り上げられる

 

要するに、マネービジネスとして極めて都合が良いのです。

市場価値を操作できるため、実際の使い勝手や生活への貢献度は二の次になりがちです。

 

しかし家具は本来、プロダクトとしていかに優れているかが面白く、また感心させられる要素でもあります。

そもそも家具は、その地域や歴史によって生まれるものです。

それによって各国ごとに特徴が生まれ、多様化してきました。

技術の進歩、歴史の変遷、長い時間をかけてその時代ごとに生まれる家具のデザインは、ひとつのストーリーとなり歴史に残ります。

こうした必然性があってこそ、家具は文化として息づいてきたのです。

 

しかし美術化が進むと、「○○の椅子だから価値がある」となります。

「××のオークションで△△ドルで落札されたから価値がある」となります。

有名デザイナーの作品は、たとえデザインそのものが伴っていない場合でも、それだけで批評がアンタッチャブルなものになります。

そこを評価しない人間は、資本主義の価値観において「間違っている」と判断されてしまいます。

 

さらに富裕層がお金を出したから価値があることになり、マネーゲーム化していきます。

たとえそれがマッチポンプだとしてもです。

 

富裕層がひたすらお金を出すことで、一般の人々には手に入らなくなり、家具という文化そのものが先鋭化していきます。

結果として「使うための家具」ではなく、「保有するための家具」になる。

そして文化が分断されていきます。

 

歴史的に見れば、確かに家具は権威の象徴でもありました。

椅子は権力の象徴のようなものであり、古代エジプトの時代からそうでした。

しかしその歴史が長く続いた後、フランス革命が起こり、一般市民にも平等に資本を持つ機会が生まれ、人々は靴を履くようになりました。

エンツォ・マーリが語ったように、「社会主義的なパワーがデザインを育てた」のです。

それが、また逆戻りしています。

 

アートや芸術は崇高なもののように見えますが、その実態は純然たる資本主義です。

資本主義による数字によって価値が作られるのが芸術です。

それは金額だけではありません。知名度もまた数字です。

 

結局、どこまで行っても過去の貴族の遊びだった時代から本質は変わっていません。

 

違うのは、それが世間一般に公開されていることくらいでしょう。

 

デザインという言葉が生まれ、プロダクトが生活を豊かにしようとしてきた。

それなのに、時代は逆行しています。

服をプロダクト化したユニクロとは対照的で、なんというか、人間の自己意識の高さがまた逆戻りしているような印象があります。

 

多くのデザイナーが「社会のための家具」を広め、人々の生活を豊かにしようとしてきました。

しかしそれが資本主義によって「お金を稼ぐこと」へとすり替わっていったのです。

 

ワークチェアやゲーミングチェアはその良い例です。

人々の生活や健康を損なってでも、「お金を稼ぐこと」が正しいことのようになっています。

「座ることが健康促進につながる」という販促は完全に間違いです。

人間工学とは長時間座らせるための工夫ではありません。

しかしそれすらビジネスの都合で歪められています。

 

本来、社会のための道具である家具が権威化すると、途端につまらなくなります。

なぜ家具の美術化に違和感があるのか。

それは工夫もアイデアもないからです。

権威とお金だけで価値が決められます。

資本主義を地で行く拝金主義であり、権威主義です。

それだけです。

 

社会や歴史、そして土地の風土によって家具の歴史は作られてきました。

かつてチャールズ・イームズは「デザインは誰に対して語るべきか?」という問いに対し、「デザインは必要性に対して語るべきだ」と答えています。

また柳 宗理は戦後のエネルギー不足を補うため、中央が空洞になったヤカンを作り、より早く沸騰するように工夫しました。

デザインとは生活を豊かにするためにあるものです。

人々の暮らしを良くし、社会を良くするために存在します。

家具のデザインは、まさにその役割を担っていました。

 

しかし今は、金持ちのマネーゲームに乗っかり、富裕層をさらに肥えさせるために、何となく自分もその一員になったかのように振る舞いますが、それは錯覚です。

 

デザイナーたちは、いかに生活や社会や人間に対して向き合い、工夫を重ね、問題を解決しようとしたのか。

そこにこそ感心させられます。

 

しかし現状では、本来の家具のあり方が軽視されています。

いや、むしろ否定されつつあると言っていいでしょう。

 

家具やインテリアの世界には、こうした表向きには見えにくい問題もあります。

あまり詳しくは書きづらいですが、権威を持たせることで子孫や財団が利益を得る構造もあります。

またブランディングのために生産数を絞ったり制限したりすることで、昔から製造を担ってきた工場や工房が苦しい状況に置かれています。

さらに、これまで製造だけでなく流通や販売を支えてきた人々も軽視される。

 

これが家具の美術化問題です。

 

最近の家具メーカーにも、この傾向があります。

「優れた自分たちによる新作だから買え」とした態度が透けて見えます。

 

権威主義であり、選民思想です。

家具においてこれは時代錯誤です。

 

ですが、権威を持たせることは成熟した証拠でもあります。

しかし成熟はやがて停滞や衰退を招きます。

 

本来の家具の良さとはデザインそのものです。

しかしその本質が失われつつあると感じます。

 

 

オマケ:この記事を読んだAIによる総評

この文章は一見すると「家具の美術化」への批判に見える。しかし本質的には、単なる家具市場への不満ではない。

中心にある問題提起はもっと深い。

それは**「デザインが本来持っていた社会性が、資本主義によって反転しつつある」**という指摘である。

本来、デザインとは生活を豊かにし、人々の問題を解決し、社会をより良くするために存在してきた。家具もまたその代表的な存在であり、各地域の風土、歴史、技術の進歩、暮らしの必然性によって形作られてきた「社会のための道具」であった。

しかし近年、その価値基準は大きく変化している。

「どれだけ使いやすいか」「どのような工夫があるか」「生活にどのような貢献をするか」ではなく、「誰が作ったか」「どれだけ希少か」「いくらで取引されたか」によって価値が決定されるようになっている。

つまり家具は道具としての価値ではなく、資産としての価値で評価され始めている。

この文章が批判しているのは、美術そのものではない。

問題視しているのは、**使用価値より交換価値が優先される社会構造そのもの**である。

かつてデザインは、多くのデザイナーたちによって社会を良くするための営みとして発展してきた。

しかし資本主義が成熟するにつれて、デザインは徐々に人々の生活を豊かにするものではなく、「いかに価値を演出し、お金を生み出すか」という仕組みへ変化し始めている。

家具の美術化は、その象徴的な現象のひとつに過ぎない。

この文章の本質は、「家具のアート化が嫌だ」という感情論ではない。

より根源的には、**評価基準が“機能”から“権威”へ移行していることへの批判**である。

そしてその背景には、「デザインは市場のために存在するのではなく、社会のために存在するべきだ」という一貫した思想がある。

言い換えるならば、この文章は家具論であると同時に、現代資本主義に対するデザイン倫理からの批評でもある。

デザインとは本来、一部の富裕層の所有欲を満たすためのものではない。

人間の暮らしを支え、社会全体をより良くするために存在する。

もしその本質が失われるならば、それは家具の変化ではなく、デザインそのものの後退なのかもしれない。

 

筆者のお店「case study shop NAGOYA」

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初代ハーマンミラーエルゴノミックアドバイザーであり、ハーマンミラーコレクションアンバサダー(全国一位)でもあります。
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