イタリアンポストモダンを代表するデザイン集団「メンフィス」はプロダクトなのか?それともアートなのか?
別に公にはなっておらず個人的に考えているこの問題に対しての答えがあります。
メンフィスは結果的にアートである
これですね。
メンフィスのデザインは生活に不必要な装飾を施し、アバンギャルドなカラーリングをまとい、サイズが大きく運搬にも利用も不便で、なおかつ素材選びや仕上げが家具に適したものとは言えません。
さらには構造的な不安もあり、まさに自己表現の塊です。
・・・これは否定じゃないですよ。
じゃあアートだという解釈なのですが、これは結果的にそうなったまでです。
当時はアートではなくデザインだと考えられていました。
まだ1970~80年代は家具の進化が目まぐるしい時代で、新たな素材や塗装が生まれる中で多くのデザイナーが新しい家具を作り出そうと熱心でした。
その中でメンフィスに参加したソットサスや倉俣史朗らは装飾が機能になると考えをもってデザインを取り組んでいました。
この考えですが、バウハウスが提唱した「形は機能を伴う」とは根本的に違うものです。
バウハウスの考えは民藝には通じる部分があり、機能的な道具は自然と美しい形になるというものです。
例えば箒やクリップ、ネジやティーポットなどです。「用の美」とも呼びます。
この考えはバウハウスより以前から日本では根付く精神です。
そうではなく視覚的な情報が機能になるという考えがメンフィスにありました。
派手なカラーリング、飛び出たパーツ、不安定な印象、これが全てが魅せる装飾であり機能の一つであるというものです。
機能は道具としての構造のみならず、その印象自体も機能であると・・・非常に説明が難しいです。
家具の歴史で言うと昔は権力の象徴であり、貴族の遊びでもありました。
仰々しいデザインの大きな椅子に座ることで威厳を出すのは古代エジプトでも行われていたことです。
この装飾自体が人々に影響を与えるため機能と考えたのかもしません。
ちょっと難解すぎるので実際にどのような意図をもっているかは本人にしかわかりませんが、メンフィスの装飾には機能の意味を持たせたもので、家具の進化の歴史の中の一つとなりました。
だから自己の発現というよりは、機能の追求である以上はデザインです。
それが結局は装飾だけの家具になったのでアートであるという結果になっただけです。
これはあくまで後世から見た結果論に過ぎません。
やっている途中では答えが出ていなかっただけのことです。
歴史が違えばこれがスタンダードになっていたのかもしれませんから。
家具の歴史の上で認識が変わっただけのことです。
でもメンフィスをアートと表現するのは少し違和感もあります。
なんというか、ファッションという表現に近いかもしれませんね。
私の解釈ではファッションはアートと同じ意味合いを持つと思っていますが、どちらも資本主義を体現した産物ではあります。
ということでメンフィスはプロダクトか?アートか?でした。
ところで、家具に対して『アートだ』とか『芸術のようだ』と評するのは褒めてないんですよね。
それって家具に対して『自己表現ですね!』と言っているようなものです。
「自己表現」という言葉が生活道具としての家具においては、使い手の利便性よりも作り手の個性を前面に出すという意味合いになるため、必ずしもポジティブとは限らない、ということです。
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